系図 : 伊藤仁斎 伊藤東涯 伊藤東所 伊藤蘭隅
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※1: 里村紹巴=室町時代末期〜戦国時代の連歌師。連歌界の第一人者。織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導した。 「愛宕百韻」と呼ばれる連歌会で、明智光秀が、「時は今 雨が下しる 五月哉」と発句したところ、 「花落つる 池の流れを せきとめて」と紹巴が詠んだことから、光秀の謀反を悟っていたとして、共同謀議だと 論証された。
※2: 里村玄仲=里村紹巴の次男。安土桃山時代〜江戸時代前期の連歌師。孫の代まで幕府の連歌師をつとめた。妻は角倉一族の医師吉田易安の娘妙源。
※3: 尾形元安=浅野因幡守。
※4: 尾形光琳=江戸時代中期を代表する画家。江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の次男。造形芸術上の流派「琳派」は、本阿弥光悦と俵屋宗達が始め、光琳が「琳派」と名付け、弟乾山とともに発展させた。
※5: 尾形乾山=江戸時代中期の京焼の代表的名工,画家。尾形宗謙の三男。乾山焼の名は広く知られている。
織田信長 明智光秀 豊臣秀吉 三好長慶 細川幽斎 島津義久 最上義光 赤穂浪士 大石内蔵助良雄 忠臣蔵※6: 伊藤仁斎=江戸時代前期の儒学者。独学で、学問を究め、仁の本質は愛であるとして、号を仁斎と改めた。諸侯の招きも多くあったが、それらには一切応じず、古義堂という私塾を開き、3,000人を超える門人たちを指導した。この古義堂は、仁斎が亡くなった後も1905年(明治38年)まで続いた。自己の感情や欲望などを慎む朱子学の限界を超え、人間のもって生まれた本性を発揮しなければならないと主張した。赤穂浪士の大石内蔵助良雄は、漢学を伊藤仁斎に学んだと言われる。
※7: 伊藤進斎=江戸時代前期 の儒者。兄の仁斎に学び、土浦藩藩儒(藩儒=藩主に仕える儒学者)。仁斎の三男介亭を養子とした。
※8: 伊藤東涯=仁斎の長男。字は源蔵。父や弟たちを支えて古義学の興隆の基礎を築き、古義学を集大成した。新井白石とも親交が深かった。古義堂第二代塾主。
※9: 伊藤梅宇=仁斎の次男。字は重蔵。福山藩藩儒。福山伊藤家初代。
※10:伊藤介亭=仁斎の三男。字は正蔵。摂津高槻藩(大阪府)藩儒。摂津高槻藩 藩主 永井直期に招かれ儒官(公の機関で儒学を教授する者)。
※11:伊藤竹里=仁斎の四男。字は平蔵。久留米藩藩儒。
※12:伊藤蘭隅=仁斎の五男。字は才蔵。この兄弟は、(「伊藤の五蔵」)と称された。兄弟のうちで、東涯とともに学問にすぐれ、紀伊藩藩儒となる(紀州藩とも呼ばれる)。紀伊伊藤家初代。
※13:伊藤東所=伊藤東涯の三男。幼少で父と死別し、叔父の伊藤蘭嵎などから学び古義学を修得。古義堂第三代塾主。三河国挙母藩 藩校 崇化館初代学頭(=校長職)。
※14:伊藤東里=東所の長男。古義堂第四代塾主。
※15:伊藤東岸=東所の三男。越後長岡藩 藩校 崇徳館 初代都講(=校長職)。
※16:伊藤東峰=東所の七男。古義堂第五代塾主。
和歌山県西牟婁郡すさみ町出身
大阪府和泉市箕形町在住
1939年(昭和14年)6月11日生まれ
1959年(昭和34年)和歌山県立熊野高校卒業
1964年(昭和39年)立命館大学経済学部卒業
71歳でデビューした肺気腫の歌手・伊藤忠(いとう ただし)
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